世界像の哲学的アプローチのメモ3

一応昨日までで世界像、世界観に関してはマルクス主義、構造主義まで来たと思うので、今日はポスト構造主義

 

 

デリダ脱構築

かっこよくいうとデコンストラクション

客観の理念そのものがある側面での現実を意味している。よって世界は人間がどうそれに向き合うかという観点によって常に限定されるし、またいくらでも想像できる。つまり超越的なものなどは存在しない。記号論的なシニフィエシニフィアンみたいな言葉に対して意味があるなんていうのは結局のところ意味を超越論的な「意味されるもの」と見做しているだけで過去のマルクス主義とかと本質は変わらない。結局解釈次第なのだから言葉ー意味とか現実ー認識みたいな楔は脱=構築しなくてはならない。

こういった超越的存在の不在を「戯れ」という。(かっこよすぎ)

 

・現在のポスト構造主義的テクスト

言葉の本質は「世界を写し取る」ではなく、言葉の世界を編むことによってエロス性を創りだすこと。言葉は現実認識の道具ではなく、美やエロスをつくりあげる素材。

 

ボードリヤールの象徴交換と死

ボードリヤールはちょっと難しい。おそらくなのだが要点は以下の通り。

1.マルクス主義は自己崩壊したが、資本主義は自己崩壊しない。これは社会を変えようという契機がないからである。

2.人は飢え死ぬというときにこそ交換不可能な欲望(超越的な存在)を持つが、現代ではその状況はないと仮定。(戯れ状態)

3.結局のところ戯れの欲望というのは超越的な価値はなく、何かのコピーのような欲望であり、その欲望というのは社会のシステムの要因として動く「閉じられた円環(シミュレーション、シミュラークル)」であるのだから、この完璧な閉鎖性ゆえに資本主義は崩壊しない。

4.人間は社会というシステムのうちにあって、生きる上で必要なものの一切を一方的にシステムから与えられている(欲望も含め)。人間が働いて子ども生んで死ぬのはシステムによる「延期された死」という贈与である。人間が社会の歯車になるのはこの贈与へのお返しに過ぎない。もしも誰かが反体制的なことをしたとしてもシミュラークルな状態では吸収されるだけ。システムをぶっこわしたければシステムが返礼できないような贈与を人間の側がシステムに与えることである。これは延期されない直接的な死(そもそも贈与を受けない)である。ここで死とは象徴的な存在。

結局言いたいのは資本主義っていうのは今の人間の欲望ごときじゃ絶対ぶっ壊れないシステムっていうことっぽい。(ちがう?)

今日はここまで。

 

おわり