世界像の哲学的アプローチのメモ2

さっきのつづき

 

・「ポストモダン的」の使い方

結局のところ世界像の哲学的アプローチというのは過去にはデカルトカントーヘーゲルマルクスという大きな流れが個人単位の流れとして存在。一時はマルクス主義という世界的な思想形態が流行ったが戦後にはレイヤーがひとつ上の段階へ行ったために廃れた。そこで構造主義という新しい方法論をもって世界や文化について哲学的な新しいアプローチがはじまった。具体的には象徴世界と具体世界の分離や意味や無意識というものを使うことで、いままでの実存主義現象学を打ち破るものだった。

しかし結局のところ何がその構造をもたらし、何がその構造を動かすのかという最深部までは構造主義では語ることはできなかった。

ポスト構造主義ポストモダンはもう一つニーチェからの流れを汲んだアプローチのひとつ。フーコーデリダドゥルーズなど。これらの人のポスト構造主義は同体系の思想ではない。ただし共通認識としては構造主義記号論の方法上の内在的限界に目を向けてそれを乗り越えようとする思考そのものである。構造主義現象学も結局客観の可能性を捨てきれていないから行き詰った。ツメがあまかった。ここでは客観≒普遍的でいいのかな?

ポスト構造主義のテーゼは反人間中心、反欧米主義など。

ニーチェについてまとめる。

1.キリスト教の道徳思想の起源は何かという系譜学がある。ニーチェ曰く、これの起源は支配された弱者たちが現実のみじめさを心理的に打ち消そうとして作り上げた「禁欲主義的理想」。その本質はルサンチマン

2.ルサンチマンから発生した思想は現実を仮象の世界とし、その背後に真の世界があると考える。「客観的認識」「普遍的認識」への思想はこういった真の世界が存在するという考えから来ている。(古くはプラトンも同じ?)しかしそういったものはあり得なく、客観的認識や普遍的認識はあり得ない。どんな観点も「解釈」にすぎない。(相対主義に近い)

3.真の世界を見出そうとする認識はその極限で心理や客観など絶対に存在しないことを見出すに至る。これがニヒリズムの働き。人間の社会や存在に意味や価値を与える超越的な存在はどこにもないという確信である。(それはその通り。ラカンのアプローチはこれを無意識とオイディプス性で説明しようとしていた?)

4.重要なのはニヒリズムを隠ぺいするためになんらかの価値の根拠を取り戻そうとすることではなくて、ニヒリズムを貫き通すこと。

5.それはなんらかの価値を発見するのではなく、新しい価値の秩序をつくりだすことである。生の力の享受を否定するルサンチマンから現れた価値の代わりに能動的肯定的な力をどこまでも高揚させていくような価値基準こそが新しい価値である。これを「逆の価値定立」という。

 

この考えが主となり普遍性から抜け出し、脱構築などの議論へ向かう。

一応今回の「ポストモダンの使い方」という意味では、普遍論や客観などを追求した後の時代がポストモダン・ポスト構造主義であり、ポストモダン的とは「これこそが珠玉、至高」みたいなある意味の価値定立のことかな~?

現代のポストモダン的産物といえばAppleの製品とかだと思われる。

 

おわり